明治42年(1909年)電信通り

始まりは明治時代

電信通りは、明治30年(1897年)10月11日に帯広・大津間に電信が開通、これによって帯広市街地に電信柱が立てられた頃、これを機会に大通五丁目を中心に藤丸や三井金物店等々、多くの商店が集中的に貼り付きました。
駅が西二条に出来てから駅前が中心になりましたが、終戦後西二条から大通まで飲食店や雑貨などの多くの屋台が並び、住宅、長屋、三条高校・北高校があり業種も銭湯の和倉湯・桜湯、魚屋、肉屋、板金、まさ屋、自転車店、馬具屋、スポーツ店など多くの商店が繁盛していました。

名前の由来は?

「電信通り」の名の由来は、明治16年(1883年)5月14日晩成社移民団の入村以来、開拓団の辛苦と共に基線道路も徐々に整備されはじめ、明治24年(1891年)から始まった、後続の殖民団を想定しての区画整理事業で明治28年~30年(1895年~1897年)の間に開通した街道であります。
明治27年((1897年)に、当時国道38号線(大津街道後に石狩街道と呼ばれる)と大通の交点(区画整理の基点)付近にあった郵便局が大通6丁目に移転し、明治30年(1897年)10月11日、帯広-大津間に電信が開通、これによって帯広市街地に初めて電信柱が立ったことから、それまで「晩成社通り」、「依田通り」と呼ばれていたものが、「電信通り」と今日まで呼ばれるようになりました